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October 01101998

 十月のてのひらうすく水掬ふ

                           岸田稚魚

の冷え込みを、多くの人はどんな場面で実感するのだろうか。それは人さまざま、場面さまざまであろうけれども、この句のようなシーン、たとえば朝の洗顔時に感じる人が圧倒的に多いのではなかろうか。夏の間は無造作にジャブジャブと掬(すく)っていた水なのだが、秋が深まるにつれて、「てのひらうすく」掬うようになるのである。水に手を入れるのに、ほんのちょっとした「勇気」が必要になってくる。新暦の十月という月は、四季的に言うとそんなにきっぱりと寒くもなくて、まだ中途半端な感じではあるのだが、少しずつ来たるべき冬の気配も感じられるようになるわけでもあり、そこらあたりの微妙な雰囲気をまことに巧みにとらえた佳句だと思う。いろいろな句集や歳時記を開いてみたのだが、季語「十月」で万人を納得させるような作品は、予想どおりに少なかった。今回私の調べた範囲で、この句に対抗できる必然性を持つ句は、坂本蒼郷の「僕らの十月花嫁を見つツルハシ振る」という気持ちよく、少し苦い心で労働する人の句くらいであった。「十月」をちゃんと詠むのは、相手がちゃんとしていないだけに相当に難しい。(清水哲男)


October 01101999

 突抜ける青が好き青十月の

                           北島輝郎

球。ストレートに、十月をむかえた喜びを歌っている。爽やかな十月。今年も、そうあってほしいものだ。。さて、せっかくの爽やかな句の雰囲気に水をさすようだが、今日は一理屈こねたくなっている(えっ、いつものことだって、……すみません)。そんな気分になったのは、句の「好き」に触発されたからだ。いつの頃からか、俳句や短歌に「好き」だの「嫌い」だのという生(なま)の感情がそのまま詠まれるようになってきた。とてもひっかかる言葉遣いだ。理由は、もとより「好き」や「嫌い」は誰にでも生ずる感情だけれど、それを生で表現することの意図がわからない点にある。そうした作品を読むと、「好き」「嫌い」は作者の勝手であるが、読者である私はそう言われても困ってしまう場合が多いのだ。そこのところを、作者は読者が困らないように説得するのが「作品」であるのに、それをしていない「作品もどき」が大半である。私の常識では、この種の書き物を文学とはとても呼べない。文学以前に、作者がそうした個人的にしか通用しない生の感情を、なぜ作品として発表したいのか。他人に読んでもらいたいのか。不可解すぎて欠伸が出てしまう。社会常識もたいしたものではないことを前提にして言うのだが、こうした表現などをひっくるめて、世間は「変態」と呼んできた。ただ、私に言わせれば「変態」も結構なのだけれど、幼稚な「変態」は「嫌い」だということである。(清水哲男)


October 01102002

 十月やみづの青菜の夕靄も

                           藤田湘子

や「十月」。今月は「体育の日」もあったりして、抜けるような青空を連想しがちだが、統計的に言っても、とくに前半は雨の日も多い。空気が湿りがちだから、靄(もや)や霧が発生しやすい月である。掲句は、そんな湿り気を帯びた十月をとらえて、見事なポエジーを立ち上らせている。戸外の共同炊事場だろうか。「みづ(水)」に漬けられた「青菜」に、うっすらと「夕靄」がかかっている。本来ならば鮮やかな色彩であるはずのものが、半透明に霞んでいる。美しさを感じると同時に、なんとはなしに寂寥感も覚える句だ。美しくもそぞろ寒い夕暮れの光景が、読む者の心を秋深しの思いに連れていくのである。「夕靄も」の「も」が、とても効果的だ。「も」があるから、句の世界が青菜一点にとどまらず、外に開かれている……。ところで以前にも書いたような気もするが、靄と霧の違いは、気象学的には次のようだ。「気象観測では視程が1キロ以上のときを『もや』、1キロ以下のときを霧としているので、気象観測でいうもやは、霧の前段階の現象である」〈大田正次〉。ちなみに「視程(してい)」は、「大気の混濁度を示す尺度。適当に選んだ目標物が見えなくなる距離で表す[広辞苑第五版]」。昨今の東京あたりでは、朝靄はのぞめても、句のような夕靄には、まずお目にかかれなくなった。「煙霧」ばかりになってしまった。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


September 3092005

 物の音散りあつまりて十月へ

                           黒川路子

語は「十月」で秋。早いもので、今日で今年も四分の三が過ぎることになる。明日からは、秋も一段と深まりゆく十月だ。そんな気持ちのなかで掲句を読むと、特に何が書いてあるわけでもないけれど、しみじみと胸に沁み入ってくるものがある。書かれているのは、単に「物の音」の状態だけだ。何の音かは、特定されていない。この季節のいろいろな音、聞こえてくるもろもろの雑多な音である。九月は秋といっても、まだまだ暑さの厳しい日があって夏を引きずっており、注意力や集中力も散漫になりがちだから、聞こえてくる音も雑多なままに、いわば「散」っている感じだ。ところが、だんだん朝夕から涼しくなりはじめると、心の統合力も高まってくる。雑多に散るがままに聞き捨ててきた「物の音」が、ひとつひとつはっきりと認識できるようになり、とりわけて風や雨などの自然の音は明らかに一つの方向へと「あつま」りはじめるように聞こえてくる。一つの方向とは、むろん涼しくて爽やかな季節へのそれだ。九月も終りの頃は、そろそろそれらの音が「散りあつまり」しながら聞こえる季節を過ぎて、透明に「あつまる」感じが濃くなってくる。そうなると、いよいよ十月だ。抽象的な句ながら、本格的な秋の訪れへの期待感が、逆に具体的身体的に感じられるところは心憎いほどの巧さだ。さあ、「十月へ」。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 07102007

 眼鏡はづして病む十月の風の中

                           森 澄雄

の句に「病む」の一語がなければ、目を閉じてさわやかな十月の風に頬をなぶらせている人の姿を想像することができます。たしかに十月というのは、暑さも寒さも感じることのない、わたしたちに特別に与えられた月、という印象があります。澄んだ空の下を、人々は活動的に動きまわることができます。そんな十月に、句の中の人は病んでいるというのです。季節の鮮やかさの中で、病と向きあわざるをえないのです。そこには、めぐり来る季節との、多少の違和感があるのかもしれません。病院の帰り道、敷地内につくられた花壇のそばの道で、句の人は立ち止まります。立ち尽くした場所で、明るい風景から目をそらすように、ゆっくりと眼鏡を外します。医者に言われた言葉を思い出しながら、これからこの病とどのように折り合ってゆこうかと、風の中でじっと考えているのです。病を持つことによって、この季節の中にいることの大切さが、よりはっきりと見えてくるようです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 17102011

 十月の雨のぱらつく外野席

                           西原天気

球観戦だ。他の月の野球ではなくて、「十月」のそれである。つまり、ペナントレースの順位争いもおおかた決着がつき、作者はいわゆる消化試合を観ている。ゲームは盛り上がりに欠け、観客席の人もまばら。おまけに雨までがぱらぱらと降ってきた。なんともしょんぼりとした光景だが、野球ファンにとってはこの寂しさにもまた、捨て難い味がある。1975年10月、熱狂的な巨人ファンだった私は、後楽園球場で最終戦を観た。長嶋新監督率いるジャイアンツは首位の広島に30ゲーム近くも離されて、既に球団初の最下位が決まっていた。ウイークデーにして小雨のデーゲーム、観客は3000人もいなかったと思う。いっしょに行った友人と「きょう来ているのが本当の巨人ファンだよな」と言いながらも、やはりやる気の無い選手たちの試合ぶりはつまらなかった。集まった観客の期待はみな、試合後に長嶋がなんと挨拶するのかに集まっていて、試合後のグラウンドに監督コーチ以下選手たちが一列に並んだときに、その日はじめて拍手がわいたのだった。だが期待は見事に裏切られ、長嶋は一言も発せずにぺこりとお辞儀をしただけでさっさと引き揚げてしまったのである。雨の中に取り残されたファンは一瞬ぽかんとし、次には口々に怒号をあげていた。「長嶋、出て来い、何とか言え」。あれほどに空しい観戦はなかった。この句の作者は、具体的にはどんな空しさを覚えたのだろうか。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)




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